今回は雑記です。

先日ボドゲ仲間と話をしていた時に、ボードゲームの何を楽しいと感じるのかの話題になりました。
皆で遊ぶ事自体にコミュニケーションの楽しさがあるのは大前提として、それ以外のどこに中毒性を感じているのかの話です。

会話相手はK君です。K君が好むゲームは対人インタラクションありありの「対戦」型のゲームです。ゲーム終了条件が相手を打ち負かすことであるような、ハッキリと勝敗がつくタイプのゲームを好みます。たとえば「宝石の煌き」のようなゲームです。彼は勝つために真剣に真剣に毎手番を考えるために、長考を咎められることもよくあるほどです。そして勝てば意気揚々と凱歌をあげ、負ければ呪詛を吐き散らして雪辱のための再戦を乞うのです。
ボドゲを遊び終えた時に見ると、K君は実に楽しんでボードゲームを遊んでいるのが良く分かります。彼にとって勝利こそがボドゲの楽しさであり、各プレイヤーは全員が真剣に考えなければいけません。なぜなら、皆が真剣に考えて遊んでいなければ勝利も敗北も中途半端なものになってしまい、真剣に考えているK君のようなプレイヤーの「勝利」の意味を薄くする非常に失礼な行為になるからです。
K君はいつも必死、いつも本気で、そして勝利にこだわります。悔しがる皆を眺めながら勝利の美酒に酔うのが最高に楽しいというわけです。万が一負けたら、その時は精一杯悔しがります。彼はそれこそが勝者へのご褒美であり、礼儀だと考えているのです。スポーツマン的と言えるかもしれません。

「勝利がすべてでないなら、なぜスコアを記録する?」
- ヴィンス・ロンバルディ ※アメリカンフットボールの伝説的コーチ
"If winning isn't everything, why do they keep score?" - Vince Lombardi

さて、僕の感じているボドゲの楽しさは少し違います。
僕が好むゲームは一風変わった、あまり今までに見たことが無いようなシステムの、複雑で重いゲームです。ゲームの勝敗は規定ラウンド終了後の最終得点計算によって判明し、ゲーム中に全員の得点がハッキリとはわからないように設計されているゲーム。そういうのが好きです。たとえば「マラカイボ」や「テラフォーミング・マーズ」のような。
僕は選択肢が多く、複雑なゲームほど現実に近くなると思っています。その複雑な世界で自分の思いもよらない選択を他の誰かがした時、すごい!なんで!?と驚くと同時に嬉しくなるのです。手番に選べる行動が多ければ多いほど悩ましく、そして楽しいです。
どのコースで得点を集めるか決断しなければいけない。僕は最も効率の良さそうなAの方法で得点を稼ぐことにしました。横を見るとK君は長考の結果、Bの方法を選択したようです。なぜ彼はBの方が良いと考えたのでしょうか。ゲーム中にそれを考えるのが最高に楽しいです。
彼はBルートで行くのが最も効率的だと考える僕の知らない根拠を何かもっているのかも。じゃあ僕もBの方に行こうか、でももうAに進んだのでひと手番遅れてしまう。損切りしてBに行くべきか?このままAを上手く回すか?それともまだ誰も選んでいないCのルートを取るか?何か見落としてるルートはないか?
恐ろしいことにバランスの良いゲームはどのルートでも勝つときは勝てるので、AルートでもBルートでもCルートでも最終得点計算で結局は1点差とかになるわけです。嬉しくも悔しくもないとは言いませんが、もはや勝敗にそこまでの重みはありません。今回はAルートに特化して遊んでみたら勝った(負けた)。楽しかった、次はCルートで考えるのもすごく楽しいかもしれない。
自分が進むルートを探すのが楽しく、他のプレイヤーの自分とは違う発想に驚き、そしてよく考えられたゲームシステムに畏怖する。それが僕の思うボドゲの楽しさです。だから協力ゲームも大好き。


会話していくうちに我々は、お互いがボドゲのどこに楽しさを感じているかが全然違うことがわかりました。それでも同じルール上で指定されたゴールに向かって遊ぶ限り、ゲームが成立しなくなったりはしないのがボドゲの素晴らしい所で、各プレイヤーがそれぞれ違う楽しさを追求して全然OKなのです。
僕はプレイヤー全員がお互いにリスペクトを持って遊ぶ限り、どんな楽しさを求める誰であっても、ボードゲームは素晴らしい体験をもたらしてくれると考えています。

この雑記の締めに、70年以上前に発行された「集いを楽しむゲーム集」という本の序文に書かれている言葉を紹介します。座右の銘にしたいですね。これは作家の品田遊氏が紹介していて知りました。

「やりたまえ、ゲームを。
明るく、何もかも忘れて、愉快に。」

-レクリエーション研究会『集いを楽しむゲーム集』